Hawaii 4

 誰かに見つめられているかんじ、というのは科学的にはどういう説明がなされるんだろう。視線というのは、なんらかの力量を持つのか。知らない。でも見つめられているかんじ、というのはたとえ瞼を閉じていても感じることがある。

 ハワイでは、普段感じるものとは桁違いの威力で、遠くから近くから途切れることなく見つめられているような気配があった。振り向くといつの間にかモアイ像みたいな大きな顔がどかーんとそこにあるようなかんじ。いま住んでいるのがまさに富士山が良く見える場所で、それはやはりいつもふと気が付くと空よりも高くどどーんとそこにあって、時々、いま私が振り返るまで富士山がぐりぐりと目を見開いていたんじゃないかと思うほど恐いことがある。だけど、しかしハワイにはそれにあたる物体というものが見当たらない。

 オアフのへそ、と言われるまさに島の真ん中に位置するクカニロコへ行ったときは、強烈にだった。何かに狙われてるんじゃないかというぐらい視線が近すぎるかんじがしてむしろ、くたびれた。車でむかっている途中あと数キロという地点からじょじょに息が詰まっていくような胸の苦しさを覚え、到着して真っ赤な赤土を踏むと、身体中がなにかにざわざわと呼応するみたいだった。そこはいわゆるパワースポットとよばれる“クカニロコ・バース・ストーンズ”といって、昔の王族のお産場所でありその際に使ったであろういくつもの大きな石が背の高い椰子やユーカリの木の陰に囲まれて点々と並んでいるとても神聖な場所。下調べのときは、人によってはとても穏やかで心地の良い場所だとか、ヒーリング効果があるとか言うひともいたけれど、私はむしろちょっと落ち着かない、ただならぬ厳かな気配に、一歩ずつ一歩ずつ見えない大きな何かの顔色を伺いながら観て回るというかんじだった。帰ってから夫が撮ってくれた写真のなかの私の表情が、他のハワイで撮った写真とはぜんぜん違う、ものすごくこわばったものばかりで、それがすべてを物語っている。ワイキキへ戻るとそれはずいぶん薄まっているのだけど、でもちゃんとある。あたたかい、やけどをしないぐらいの距離で、そこにある。眠っていても、ショッピングセンターにいても、海のなかで360度見渡しても、どこかにある、あれはなんだろう。

 誰かに見つめられているかんじ。赤ん坊になってくるまれて眠っている頬に、やさしくなまあたたかいお母さんの視線がそよそよと降り注がれているかんじ。帰国の日、飛行機が離陸すると、空から望むオアフ島はずいぶんちいさな島なのに、まだ確かにぐっとせまる何者かの包みこむような視線があって、だけどするりと眠りに落ちるともう瞬く間の東京で、魔法がとけたみたいにそれはなくなっており、私はまた大きなものとつながりを失ったただの人間に戻ってしまい、身体と世界にすきま風が吹いているようで肌がとても寂しくて物悲しくて、かすかに子守唄のような淡い記憶が頭に残るだけだった。そしてそれにももう、すぐ慣れた。

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